バルト海沿岸ラトビアの東北部からエストニア南部にかけての地域をリヴォニア (Livonia) という。
かつてこの地にはフィン・ウゴル系とされるリヴォニア語を話すリーヴ人が住んでいた。現在(2003)リヴォニア語を話すのは約35人、流暢に話すのはその内の10名ほどと言われている。
ドイツ騎士団の植民やバルト人・スラヴ人等との混血により、リーヴ人は消滅したとされている。
ドイツの侵攻:西暦1200年前後、リヴォニア帯剣騎士団とドイツ騎士団が北方十字軍として侵攻、殖民する。
1558年から1583年までロシアがバルト海進出を目指しリヴォニア戦争が行なわれた。
モスクワのツァーリ・イヴァン4世がリヴォニア騎士団へ宣戦布告。
ロシアの侵略に晒されたリヴォニア騎士団は、リトアニア大公国と同盟し、さらにポーランドに助けを求めるが、ロシア軍の侵攻により滅亡に向かう。
この機にポーランドーリトアニア大公国軍とスウェーデンがリヴォニアに侵攻。デンマークも、スウェーデンのバルト海進出を阻止せんと乱入してくる。ポーランド・ヤギェウォ家とスウェーデン・ヴァーサ家は、婚姻関係を結び、ロシアを挟撃する。
リヴォニア騎士団長ゴットハルト・ケトラーは、ポーランド王国に臣従し、クールラント公国を建国した(1561年)。
リトアニア大公国軍は、ロシア軍と交戦するが苦戦してポーランドに参戦を乞う。リトアニアはポーランドと合併してロシアに対抗する。1569年にルブリン合同を結び、両国は一体となった。彼らは、オスマン帝国とクリミア・ハン国を参戦させ、クリミア・ハン国は、1571年にモスクワに侵攻してこれを焼き払った。
1582年、両国はローマ教皇の仲介で、戦前の状態に戻す事で、休戦条約が結ばれた。
スウェーデンは、リヴォニアから撤退し、エストニアを確保する。
1583年、ロシアは結局、バルト海進出を諦めシベリア進出に専念するようになる。
1721年、大北方戦争でスェーデンが敗退、ニスタット条約が結ばれる。リヴォニア・クールラントはロシア領となる。
19世紀には約2000人のリヴォニア語話者がいたとされている。
1852年、リヴォニア人の数は2394人であった。
1918年、リヴォニアの北部をエストニア、南部をラトビアとして国家が成立した。リヴォニア語が再び盛んになってくる。 第二次世界大戦とソ連侵攻:リヴォニア語は排斥される。
リヴォニア人はエストニア人やフィンランド人と関係が深く、現在ラトビアの6割を占めるラトビア人とは別民族である。
1991年ソ連崩壊
2004年エストニア、ラトビアEU に加盟
2005年からは、ポーランド空軍がエストニアを含むバルト三国の領空防衛を委任されている。
(参考ウィキペディア)
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